ライ麦男を捕まえろ

Catcher of the Rye Man

小此木は言った「君は役者ではない!」と。

先日、とあるTRPGにプレイヤーとして参加しました。卓は総勢15名越えの経験したことない大きさのものであり、その特殊性もあってか、あるいは出会いの多さからか、事前の心構えもあり、卓を終えた頃には自分は大きく変わっていました。

卓後にあるのが伏せったーでの感想戦。いつも長くなるのですが、今回は不思議なことを言ってしまった。以下、その内容を引用する。*1

 

実は、彼はほとんど"役名"で人を呼んでいません。これは彼なりに正気を保とうと、”皆にも正気を保ってもらおうと”した策でした。私は私であって、他の誰でもない。ましてや書き割りの役者でもない。誰かの作った物語にのせられて、それだけでもムカつくのに、自分から役名を名乗るなんて我慢ならない!というのが彼の怒りでした。 

 

奇妙ですね。とっても平坦に考えてみましょう。

彼(PCである小此木)は私(PLである軽井沢)の創作物であり、その設定は私が彼の演技をするための資料であり、私はその場で台本を作り、その場で演技をしている。言うなれば人形と操り師の関係にあるはずです。そんな彼が、「私は私であって、他の誰でもない。ましてや書き割りの役者でもない。誰かの作った物語にのせられて、それだけでもムカつくのに…」などと!

 

一見すると、階層化されたメタフィクション、いわゆる劇中劇のような状態に目が行きますが、私が注目したいのはそこではありません。

これから私が話すことは「TRPGにおけるPCの、PLの役割はなんだろう?」というような機能的観点から分析しようとすると迷子になるかもしれません。というのも、私はこれからPLとPCを「区別できないもの」として分析してゆくからです。

 

私が言いたいのは、PCとPLは同一の物として、より言えばそれ以上分割不可能な対象の異なる二面として解釈してみよう、と言うことです。

 

一般的に言われる役であったり役者であったりといった区分は、(ひとまず私のような)TRPGのロールプレイングにおいては少し違うのではないか、と思い至りました。

(私はロールプレイの仕方に講釈を垂れるつもりはなく、そこは完全に個人に一任されるものであると信じています。)

 

ポイントは、PC作成時の自由度の高さです。ザックリとした推奨技能があることはあれど、ダイスと技能とフレーバーテキストは私達にとって無限に近い自由度を持っています。しかしながら、私たちは比較的すんなりキャラシを書いてしまう。恣意的に射程を狭め人物像を固めてゆくのです。

私たちは想像できるものしか想像できないし、狂人の振りをする者もまた狂人そのものであり、キャラ紙作成は“対象への投射による検閲の迂回”であると言えます。

そうした中で作られたキャラクターというのは、私自身と言っていいのではないでしょうか。

 

より深めて言えば、それは私自身であり、しかしメタ的には(建前としては)私と分離されるもの。“私自身の化身である”と言った方が分かり良いかもしれません。

 

PLとPCは従属的な、あるいは関係にあるのではありません。それは二面性の関係であり、ペルソナ、化身であり、ヴァーチャルな関係です。

KPの統括する目の前の卓の世界では、私はPCの姿でしか“存在できない”。TRPGのゲーム内というメタ情報空間では、同様のメタコードを持つ情報存在しか活動できない。一方で、卓を囲んでいる即物的な“リアル”世界では、PLつまり私しか存在できない。*2

 

彼は即ち私であり、私は即ち彼である。彼の得たものは私も確かに得ており、そしてまた、“逆も起こる”。

卓を重ねるごとに成長するのは私であるしそれは彼でもある。

 

彼の目線=捉える世界はリアルな=物質的なものではないく、ヴァーチャルな=実質的なものとして私に投影される。

 

私は役者ではありません。そして彼に言おう。「君はキャラクターではない!」と。

*1:ハピ殺所感2.

*2:ここでは物質世界に照応するコードを肉体が持っています。